慧燈財団が設立された経緯

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−慧 燈 財 団 が 設 立 さ れ た 経 緯−

平成元年、カンボジア難民慰問の帰りに観光気分でタイのチェンマイ県を訪れた僧侶の一行の前に現れたタイ人老僧からこんな言葉が一行に投げかけられた。

「タイ北部へ観光に訪れる日本人はたくさんおるが、今もこの地で眠っている日本兵に手を合わせる者は一人もおらん・・・。」「それが日本人か!それが人間か!」

 僧侶の一行の中にいた因通寺(佐賀県)第16世住職調寛雅は、自身も学徒出陣で出陣し激戦をくぐり抜けてきたことがあり、また戦友や部下を亡くした経験があるだけに、その老僧の一言は胸に深く突き刺さるものがあったという。

 老僧の日本人に対する苦言という棘が胸に刺さったままの調寛雅は、日本へ帰国後タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼委員会を設立。その後の調査でタイ北部およびビルマ (現ミャンマー)方面には未だ発掘されず草生す屍となって眠っている多くの旧日本兵士の遺骨があることを知り遺骨収集活動を開始した。

 平成7年には現地での活動を円滑に行うために、タイ国で法人格を取得し、称号もタイ・ビルマ方面戦病歿者追悼委員会から慧燈財団と改め、その初代理事長に調寛雅は就任し、遺骨収集活動に精進した。

 各地から収集された遺骨は、現在チェンマイ県メーワン郡のバーンガート中高校敷地内に慧燈財団が平成5年に建立したタイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑の中に収められ、その数約18,000名の日本兵士およびタイ人軍属がこの追悼之碑の中で今も静かに眠っている。  

 また遺骨収集では、現地人がまるで同国人の遺骨を発掘するかのごとく協力してくれた。戦中戦後、彼らが丁寧に日本兵士の遺体を埋葬していてくれたおかげで現在も発掘作業を続けることが出来るのである。

 そんな現地人達に対して何か恩返しをしたいと常々思っていた調理事長と慧燈財団の関係者は、タイ北部には貧困ゆえに学校に通うことが出来ない子供達が多数いるということを知り、教育里親制度を慧燈財団の根幹をなす事業の一つとして立ち上げ、日本在住の邦人から広く里親を募り、平成7年より奨学金支給を開始した。

 今日まで慧燈財団の教育里親制度によって奨学金の給付を受けた学生は述べ4500人以上にも上り、現地での対日感情にも大きく貢献した。

尚、この奨学金の支給は現在も毎年行われている。

 またアセアンと日本を繋ぐ架け橋と成る人材を育成することを目的としたタイ人留学生受け入れ制度やチェンマイ慧燈日本語学校を設立し、多面的な活動を展開、東南アジアで活動するNPOの草分け的存在となる。

 そんな慧燈財団であったが、平成191月の厳寒、関係者達の体を雷が貫くが如き訃報が突き抜けた。

 これまで約20年間一心に日タイの友好の為、またアセアン諸国と日本の未来のために尽力してきた調理事長が往生の本懐を遂げられたのだ。

 暖冬の冬にしては珍しく雷を伴う大雪が降り積もった葬儀の日の朝、積雪で各交通手段が麻痺していたにも関わらず、因通寺に続く「だらだら坂」を登って、調理事長に最後の別れを告げに来る弔問客は、しんしんと降り続ける雪とともに一日中絶えることはなかった。

 調理事長が逝去した後、関係者一同は悲しみに暮れる間も無く慧燈財団の体制を新たに整える為に、文字通り東奔西走の日々をそれからしばらくの間送ることになる。

 そして調前理事長の一周忌が過ぎた平成20年2月、漸くここに慧燈財団の新体制が発足し、慧燈財団の歴史に新たな一頁が刻まれようとしている。

 調前理事長の遺志を受け継ぐ者達によって・・・。