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いつくしみの塔
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昭和59年因通寺(佐賀県)の境内に建立されましたいつくしみの塔には、現在「百万人針の大幟」が2旒と「來迎仏の仏像」が一体、そして世界各地から収集されてきた日本兵士の遺骨1、000体余が安置されております。 戦歿者のご遺骨は、昭和55年から平成8年にかけて台湾・バシー海峡・旧支那方面・雲南方面・ガダルカナル・ニューギニア・フィリピン・ビルマシャン高原・ビルマフーコン地区・タイ・ビルマ国境地帯などから収集されてきた御遺骨です。 これら「いつくしみの塔」内に安置された御遺骨に対し、恭敬読経の供養が毎朝8時より行われております。 その毎朝の恭計読経を勤修されていた調前理事長は、御遺骨の各位が遺族を求められる啾啾の声が、万雷の如く響いてまいるようだったと申しておりました。 大東亜戦争に於ける戦歿者のご遺族ご関係者の方々は是非、この「いつくしみの塔」へ御参拝ください。 *「百万人針の大幟」と「來迎仏の仏像」については調前理事長が記された文をそのまま掲載しておりますので、そちらの方をご覧ください。
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いつくしみの塔について
因通寺の第十五世住職 恒願院和上は去る大東亜戦争中に(第二次世界大戦とも申します)沢山の日本軍の将兵が次々その命を戦死ということで失い、又傷つき、病に倒れる姿を見て、大変心を痛め、陸海軍病院を訪れては、自らが盲目である苦しみの体験をもって、傷病の将兵の精神的支援となっておりました。 それが昭和十三年皇后陛下が戦死者に対して、 やすらかに 眠れとぞ思う きみのため いのち捧げし ますらをのとも という御歌をお詠みになり、又、遺族の方々に対しては、 なぐさめん ことのはもがな たたかいの にはを偲びて すぐすやからを と二首の御歌をお詠みになられたのであります。 この二首の御歌の中には戦争というものを悲しくおもわれる皇后陛下の御心がひしひしと感ぜられました。この御心にいたく感動した恒願院和上はこの戦争が出来るだけ早く終わり、これ以上の尊い「いのち」が亡くなることのないようにということを思い、この皇后陛下の二首の御歌を大幟として、これを二本に書き記し全日本女性の方々のところに持参し、現在は戦争という悲しい状態にあるが、実は日本の心は大和の心であり、戦争を決して好むものでないということを全国女性に鮮明にお話しをして、この趣旨に御了解下さった方々より一針の刺繍をして頂くことに致したのであります。 このことを宮中に参上して、御奏上申上げたとき、天皇陛下(昭和天皇)皇后陛下も、いたく御喜び頂き「そのことよ そのことよ」とのお言葉を頂戴したとのことであります。特に皇后陛下には、すぐに御針をおとり頂き、御自らこの大幟に一針を刺繍して頂いたのであります。
完成した百万人針を天皇陛下、皇后陛下の御許に奉じ奉るべく、宮内省に連絡申し上げましたが、当時は日本本土への空襲も烈しく、老盲の僧が東京まで行くことは、とても至難のことでありました。そこで宮内省の方からは「秋まで待つように」という御指示を頂いたのであります。もどかしい心を抑え、その日を待ったのでありますが、八月十五日終戦の詔勅が発布され、百万人針の取り扱いにも、大きな曲がり角を要求されることとなりました。敗戦の痛苦の中に呻吟した、恒願院和上は、天皇陛下が百万人針完成を確かめるための行幸を頂くということを知らされ、恭悦したものの、百万人針完成のための全国行脚という疲労が俄かに昂じ、昭和二十二年十月二十八日、「百万人針」に心を残し、往生の本懐を遂げたのであります。 こうして恒願院和上往生の後、この百万人針を如何に安置し保存するかということが大きな問題となり、この話し合いを進めているうちに、昭和二十六年四月九日因通寺本堂及び庫裏一切が火災のために焼失という災厄に見舞われたのであります。しかし、この火災という大変の中に、他の一切は焼失したのにこの百万人針だけは不思議に一ヶ所の火に焼け焦がれることもなく、残っておったのです。不思議というより皇后陛下以下百万人の女性の「まごころ」がこもっていたからであると申さねばなりません。
このことは直ちに宮内庁にも御報告申し上げましたが、天皇、皇后両陛下にもいたく御喜びのことであったと申します。 この火災ということから百万人針安置のための塔を作ることとし、広く日本中に呼びかけましたが、募財ということになると、なかなか苦労多く、漸く昭和五十九年に完工ということとなりました。 このいつくしみの塔の完成の法要には十月二十八日宮内庁より天皇陛下の勅使として入江侍従長がお出向きになり、佐賀県知事をはじめ両院の代議士等等に御参集頂き、誠に意義ある落慶法要を勤行することが出来ました。 完成後は戦没者の追悼をはじめ御遺骨の収集(外国の)を致し、外国にも遺骨を納めた追悼碑をいくつも作ることになりました。 そして今、このいつくしみの塔は「いのちの塔」として万人の「いのち」を守るための塔ということになったのであります。日本人全部が「いのち」を大切にしてくれるようにということを百三十万の御婦人達と共に願い続けるものであるのです。
いつくしみの塔内の仏像
それは、去る大東亜戦争(俗称 第二次世界大戦)の折に、インド及びビルマ独立義勇軍と共にインド及びビルマ独立解放のため日本軍はビルマに軍隊を展開し、タイよりビルマに進駐したのである。このとき、日本軍の損傷極めて大きく、ラングーン(現ヤンゴン)南方の戦線で約一万の戦死者を見るに到った。これを収容するためラングーン(現ヤンゴン)南四十キロ、パグ北約三十キロの地に日本兵の死体を収容する為の墓地を作り、一万の日本兵を埋葬した。そしてここに小さな精舎を作り、日本の仏像を作り、安置して、ビルマ進駐全日本軍がこれに参拝し、戦死者を追悼することとなった。 この仏像は立像であり、来迎佛なのである。本来、このビルマ地域、或いはタイ、ラオス、カンボジア等は釈迦像が多いのに、日本軍将兵の為、墓地に来迎佛を作製せしめられたものと思われる。
現在では、このビルマをはじめ上座仏教圏内では、釈迦像が殆どで、阿 この時現地人であるミャンマー人が仏像のみを密かに保存し、これをパゴの寺に安置した。この事を 因通寺 第十六世住職 調 寛雅の知るところとなり、パゴまで足を運び、頭を低うしてこの仏像を譲り受け、いつくしみの塔内に安置するに到った。この仏像の佛眼は、大東亜戦争(俗称 第二次世界大戦)をはじめその後のビルマの歴史を確かに慈眼の中に納めとられたものと思われ、日本の地に来て、もろもろの出来事をその佛眼は語りかけていられるようである。
因通寺 第十六世住職 調 寛雅 |
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